小生の愛する奥様のお誕生日に公開させていただいた記事の補足Iになり
ます。
電通の過労死事件以降 NET記事でも長時間労働や過労死についての記事
を多く見かけるようになった。ただ どうしても小生の感覚から言うと首を
かしげることが多い。それはなぜなのだろうか?と上の記事を書いてからも
ずっと考えていた。
現時点でたどり着いたのは。。。。。。
結局究極的に考えて 働く=労働するということの捉え方ではないのか?
ということである。
東洋経済にこういう記事も出ていた。
長時間労働と決別する新しい考え方
詳しくは読んでいただければわかるのだが これを読んでいてこの記事
の著者の考え方として 働くということは「役」であり 「苦」であると考え
ていると言うように思えた。
確かに労働を提供してその対価として賃金を取得するのであるから「役」で
あることは確かである。しかし「苦」であろうか??
実は小生は究極的な考えとして 働くことは「娯」であり「楽」につながる
と考えている。まあ これは基本的な考え方なので 皆さんがどう考えるか
はそれぞれ違うのであろうが。。。
ただ一つ言えるのは「娯」であり「楽」と考えておけば いつでもそれを
止めることが出来る、気分的に楽なのである。
それを「苦」と考えるから辛いだけなのだと そう思うことはデキないの
だろうか?
高齢化社会なのでもはやそう言えないのかもしれないが人間の人生の中
で「寝ている」時間の次に長いのは「働いている」時間なのであろうと思う、
であればそれを「苦」として捉えてしまえば人生そのものが「苦」になるの
ではないだろうか??
確かに「苦」であるから 休日に「楽」を求めるのだ という考えもある。
しかし 「楽」だから 休日にはあえて「苦」を選択して 自身の体を痛め
つける運動をしたりする人も多いのだとも思う。小生的にはわざわざ休日に
マラソン競技会に出たりする人がいることが?であるが 当人のとればそれ
が間違いなく気分転換でもあり「苦」ではなく「楽」として捉えられている
のであろう。
単純に言ってプラモデルは作るのが楽しいのであって 誰かが作ったもの
を買ってきて楽しいはずがないではないか?
要は考え方だけである。自身に課せられている仕事が「苦」と思えば気が
めいるが「楽」と考えればそれもまた楽しいものになるはずだ。
「楽」であればそれがたとえ長時間強いられても構わないと考えられないか
まあ そればっかりやっていてはやりきれない気持ちになるのは理解でき
るがその際の気分を切り替えることもそう考えることで楽になるのでは?
昨日 ふと そう思った。それには 今日まで帰郷している愛娘とその子達
を見ていたからかもしれない。
3才時 1才児のパワーは計り知れない、その御蔭でというか小生の背中も
まだ痛む 食事をする時の凄まじさ あたり一面の散らかし加減 怒ればすぐ
に泣きわめく 見方を変えれば地獄絵図かもしれない。しかし当事者に取れ
ばそれが子育てであり 楽しみでもあると考えている(逆に考えられない人が
虐待を行い 挙句には我が子までも殺すという残酷な事件を引き起こしている)
それを今週まざまざと見ていたから。。。。。
今日で またしばしの別れとなる 正月に帰ってくるとのことだが更にパワー
を上げてくるであろうから こちらも備えてパワーアップしよう。
あえて補足として書かせて頂きました。